2013年8月18日日曜日

山口西京ウオーキング協会8月例会(2013年)防府市富海の歴史と琴音の滝ウオーク 参加報告


2013年8月4日(日)曇り、健脚向、約10㎞、21名参加。


海運で栄えた飛船(とびふね)の富海歴史巡り。
 
 
「注:飛船の説明は最下段で掲載しています」。 
  
先月末からの雨は今日も全県下を覆う、防府市東部の富海は奇跡的に曇り。スマートフォーンの雨雲レーダーを観ると小倉は大雨で赤表示、雨具の準備をして出発。
 
旧山陽道の橘坂(旧山陽道)茶臼山・梶尾の高台・琴音の滝のアップダウンを挟み、富海の歴史を大内輝弘・滝谷寺・旧山陽道・脇古墳・国津姫神社・富海本陣・伊藤 井上両公上陸の碑など巡る、湿度の高い中を汗だくで楽しみました
ウオーキング終了後に富海海水浴場では、ビールを飲み本当に楽しみました!!
悪い天気の中、参加された大勢の皆様、ありがとうございました。
 
 
宣伝:当該・下見会を2013年6月15日(土)、雨・曇り、下見参加10名で実施。
 ブログ検索 ⇒ 下見:山口西京ウオーキング協会2013年8月例会。
 
本番と写真重複しない様に掲載しています。
 
琴音の滝

「コースタイム」
スタート・JR富海駅9:44~JR山陽本線・橘坂第1踏切9:49~(旧山陽道)~茶臼山古戦場・大内輝弘墓9:58/10:03~JR山陽本線・橘坂第1踏切10:13~JR山陽本線・浜婦知踏切10:15~R2号地下道10:17~(梶尾の高台)~滝谷寺10:37/45~琴音の滝入口10:49~(下の道)~琴音の滝10:56/11:03~(上の道・大平山登山道入口)~琴音の滝入口11:09~R2号横断歩道11:22~セブンイレブン防府富海店(トイレ・水分補給)11:23/32~R2号分れ(旧山陽道)横断歩道橋下11:36~旧山陽道分れ11:38~秋葉橋・古川11:39~脇古墳11:41/43~国津姫神社11:50/52~旧山陽道に合流11:56~富海本陣11:58/59~大和屋政助の船蔵12:01~JR山陽本線・中町踏切12:04~伊藤・井上両公上陸地の碑12:06~富海海水浴場12:11~ゴール・JR富海駅12:15。



*以下の参考:富海史談会・史跡でめぐる ふるさと富海。

◇茶臼山古戦場と大内輝弘の墓。
 大内輝弘は大内義隆(大内氏最後の領主で長門市大寧寺で自刃)の従兄弟。永禄12年(1569年)毛利氏が九州の立花城を攻めている際に、豊後(現大分県)から秋穂(山口市秋穂)へ上陸し、山口を占領した。しかし毛利の軍勢が引き返して来たため、豊後へ逃げ帰ろうとしたが船がなく、陸も海も毛利氏の軍勢に囲まれて、逃げる場所がなくなり、富海と牟礼末田の境の茶臼山で自刃した。墓石には「別当」と刻まれている。また茶臼山には輝弘が切腹した所と伝えられる岩と、鎧をかけたといわれる松があったと伝えられている。
大内輝弘の墓

茶臼山・旧山陽道案内板


 ・梶尾の高台。
梶尾の高台から椿峠・旧山陽道を望む


◇内藤元珍(ないとう・げんちん)自刃の滝谷寺(りゅうこくじ)。
 海門山滝谷寺は門前地区にある曹洞宗のお寺で約700年前の創建。周防観音第20番霊場でもある。慶長20年(1615年)、富海を領地にしていた内藤元盛は、佐野道可と名を変えて大阪城に入り豊臣秀頼を助けたが、敗れて京都郊外大藪村で自刃した。元盛の子の内藤元珍と粟屋図書にも豊臣方へ見方をした疑いがかけられ、京都に呼び出されたが、疑いが晴れて山口へ帰ることお許された。しかし藩主毛利輝元は元珍と図書の二人を自刃させた。元珍は滝谷寺で切腹し、家来の都野半右衛門と花田理右衛門も殉死した。
滝谷寺

同上、本堂。法事の食事準備中、良い臭いが漂い腹が減る

同上、妙見山より移転された北辰妙見大菩薩


◇琴音(ことね)の滝。
 門前地区。滝谷寺の東を谷川沿いに行き、しばらく急な山道を登った所にある。東林渓(とうりんけい)とも呼ばれていた。谷間の小さな滝であるが風情があって、昔から歌や詩に多く詠われれている。滝不動は昭和26年(1951年)に周南市(旧徳山市)黒髪石材の梅田利一氏により勧請されたものである。
 
琴音の滝、入口看板

奥:琴音の滝 手前:滝見処琴音

琴音の滝、上の道に大平山登山道入口


・セブンイレブン 防府富海店。
 トイレ休憩・水分補給・アスクリーム等で元気を取りかえす。富海海水浴場が近いので浮き輪など他店に無い海の関連物を販売。お騒がせし、大変お世話になりました。
セブンイレブン 防府富海店、R2号沿い


◇脇(わき)古墳。
 脇地区。約1,400年前の古墳時代後期に造られたと思われる横口式石室の古墳。現在は上の土が流れて、石槨(石組み)が露出しているが、玄室と羨道からできていて、玄室は大きな蓋石で覆われており、中からは須惠器の破片が見つかっている。
 
旧山陽道を左折、脇古墳に向う

右:脇古墳、暑くて木陰から見学



◇国津姫神社(くにつひめじんじゃ)。
 脇地区にある。古くから富海の氏神様。祭神は厳島神社、宗像大社と同じ海の女神三柱で市杵島姫命、田心姫命、瑞津姫命。国津姫の社名は三女神の中の瑞津姫命のこととする記述と、地元の神夏磯姫(かんかきひめ)もお祀りしてあるからと記載している資料とがある。毛利元就が宝殿を修造した時(永禄6年、1563年)の棟札には「最初建立、永承五乙未年(1046年)・・・」と書かれているが、いつ頃創建されたかは明らかでない。
国津姫神社

同上、拝殿

同上、天野屋利兵衛は赤穂浪士「忠臣蔵」の武器調達で有名



◇山陽道の半宿「富海宿(とのみじゅく)」。
 江戸時代の山陽道の宿場うち、防府市内では宮市に宿場があり、富海町・浮野市・岩淵市・大道市は半宿といった。富海宿は現在の中市地区の東端にあって、宿舎の本陣は建物のかなりの部分が当時のまま残っており、表門も修復されて残っている。本陣の東隣りに脇本陣があったと記録があるが現在はない。
 半宿は休憩、昼食に利用されたが、宿泊に利用した例もある。宿場には宿馬14匹を置き、人足飛脚の溜まり場もあった。宿場の東隣に江戸屋、西隣に曽根屋、南にも大国屋があって旅館業を営んでいた。
旧山陽道

富海本陣


NHK大河ドラマ「篤姫」昼食に立ち寄る、領収書は泊りとの請求文書が発見されました
 



◇飛船問屋 大和屋政助の土蔵。
 中市地区。大和屋は屋号で、本名は清水与兵衛(1820~1886年)。幕末、勤皇の志士の活動を援助し、また船による長州隊員輸送などに力を尽くした。
 文久3年(1863年)9月、明治天皇の叔父にあたる中山忠光卿は、長州を頼って京都から飛船で富海へ落ち延び、大和屋政助宅の土蔵を改造した二階にしばらく潜伏した。
大和屋政助の土蔵(船蔵)

同上、説明板

干拓前の海岸線。舟できて石段を上がって、直接家に入る



◇伊藤・井上両公上陸の碑。
 西町地区にある。文久3年(1863年)に英米仏蘭4ヶ国の連合艦隊が下関を攻撃するという情報を聞いた伊藤博文、井上馨は、英国留学を中断して帰国した。2人は元治元年(1864年)6月24日富海へ上陸。飛船問屋入本屋磯七の宅で、刀を借り、衣服を整えて、山口の藩庁へ行き、勝ち目のない戦いを止めるよう説得した。しかしその努力は実を結ばず関門海峡の戦いで、長州藩は大敗した。両公の上陸を記念して、昭和4年(1929年)、旧入本屋屋敷跡に碑が建立された、公爵伊藤博邦書。
伊藤・井上両公上陸の碑

同上、説明板

西の川(鮎児川)河口から、大平山遠望


◇富海海水浴場。
 東西約550mの白砂青松の海水浴場は、古くから近傍の人の夏のレジャー地として有名。大正の初めころ、山口高商(現山口大学経済学部)教授であったガントレットによって、広く紹介され有名になった。当時は英国人家族が避暑地として利用したりして、珍しがられていた。
富海海水浴場、伊藤・井上両公の上陸中継地の姫島(大分県)見えず


 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以下、地元情報・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 


Ⅰ、JR富海駅清掃奉仕。
 ウオーキング当日、一列車早く到着、駅にウオーキング参加者見えず。地元の富海中学校・おやじの会・ステーション21・JR防府駅の皆さんが駅周辺とトイレの清掃が終了まじか。写真は終了式の様子、顔の一部にブラシ加工。暑い中大変で大変ご苦労さまでした、綺麗に使います。
駅掃除の皆さん


Ⅱ、幕末から明治にかけての富海。
 主な出来事(寛保~明治)飛船の変還。寛保元年(1741年)「後領内町方目安」。維新功労者調・岡本三右衛門の項。
飛び船の変還

御領内町方目安

政治的にも重要な地点



Ⅲ、飛船(とびふね)で栄えた富海港。
 飛船は〔とうかいぶね(東海船、渡海船)〕と呼ばれていた。古くから漁業渡世の経験を生かして旅客、貨物の運送を行い、倉庫業なども兼ねた。回漕先は主に大阪であったが、四国、九州などへも行った。飛船の数は最盛期の天保~嘉永年間(1831~1854年)には60艘以上になり、船も50石船と大きくなった。京大阪と富海をいつも往復しているので、民間の情報基地としても役立っていたものと思われる。国津姫神社の大鳥居には、天保年間(1830年代)飛船講中寄進と刻まれており、当時の盛況がしのばれる。飛船は明治に入って汽船航行の時代となり、しだいに衰えて、廃業した。
飛船の航路(推定)


Ⅳ、吉田松陰先生と富海・飛船  参考:山口県教育会・松陰と道。青斜字:オリジナル
 江戸再遊学、10年の遊歴を認められて萩を嘉永6年(1853年)1月26日早朝旅立ち。同日夕方(午後6時)三田尻の御船手役人・飯田行蔵宅に到着、約12時間で萩往還を踏破する。
松陰先生は健脚ウオーカー。距離は萩往還が約53㎞、萩松本の家から萩往還の起点・唐樋札場まで約3㎞、萩往還の終点・三田尻御茶屋から役宅まで約1㎞で合計約57㎞を12時間で踏破。平均時速は4.75㎞/h、食事時間が含まれれるのでスゴイの一言です、頭の良い人は足も速い!。
 富海・飛船。1月30日に三田尻から富海に向い、翌2月1日午前10時頃、松陰先生らを乗せた船はやっと富海を出港。風が悪く徳山大津島のチカワ、上の関室津、岩国津々に入港。2月3日岩国新湊で荷揚げの時間待ち、錦帯橋で諌櫃(いさめびつ)を見つけ、岩国藩の行政に感心した。のち宮島をめざして長州を離れた。
方々を訪ね、やっと嘉永6年(1853年)5月24日に江戸に到着。そして維新開幕の大事件、ペリー率いる4隻の米国東インド艦隊が浦賀沖に出現。
密航未遂事件はこの後の安政元年(1854年)3月27日夜明け、松陰先生と金子重之助は小舟で米国軍艦に漕ぎ寄せた。





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