2015年3月29日日曜日

文と玄瑞の愛した阿東生雲 ~旧街道ウォーク~ 10,756歩


2015年3月14日(土)晴れ、73名参加。

                                              主催:阿東地域づくり協議会
共催:阿東郷土史研究会 NPOあとう


 
文と玄瑞の愛した 阿東生雲(あとういくも) ~旧街道ウォーク~
大河ドラマ「花燃ゆ」ヒロイン文、夫の久坂玄瑞の母は生雲の大庄屋大谷家の娘でした。



 山代街道(やましろかいどう)は萩城下と山代宰判(やましろさいばん・現、岩国市本郷・秋掛)との間の山道を芸州(現、広島県)境まで結ぶ。同街道は八っの市(いち)があり、その一っの生雲市(いくもいち)に幕末の史跡を古地図を片手に歩きました。
参考:宰判は萩藩の地方行政単位、生雲は奥阿武(おくあぶ)宰判に属します。
配布の古地図
配布のガイドブック
募集のチラシ



◎開催地:山口県山口市阿東生雲。
明治維新の策源地 山口市。
 萩藩は幕末に幕府に無断で藩庁を萩から山口に移転、明治維新へと突き進みました。この事から山口市を明治維新の策源地と呼んでいます。
また、平成30年(2018年)は明治維新150周年です、山口市では様々な取組みが行われています。



◎大庄屋大谷家と久坂玄瑞(大河ドラマ「花燃ゆ」ヒロイン文の夫)。
 ◇大谷富子(久坂玄瑞の母)。
  大谷家八代大谷半兵衛の長女、兄の九代大谷忠兵衛と権平の三兄妹。
 玄瑞の父の萩藩医久坂良迪に嫁し、玄機と玄瑞を産むも早世。
 ◇大谷家九代大谷忠兵衛(久坂玄瑞の母方の伯父)。
  玄瑞の京都時代の子・秀次郎は妻の文とは生さぬ仲、大谷忠兵衛の娘婿の椿家で養われる。
 椿家は石州街道・徳佐市の脇本陣で酒造業を営む、忠兵衛と共に維新に貢献しました。
阿東地域交流センター生雲分館に掲示。玄瑞の母富子は、八代大谷半兵衛の娘

◇久坂玄瑞(大谷富子の二男、九代大谷忠兵衛の甥)。
 久坂玄瑞全集・江月斎日乗(久坂玄瑞の日記)。 玄瑞の生雲、坂本龍馬との萩での出会い、日本最初の攘夷の外国船砲撃・下関(関門海峡)戦争、禁門の変(蛤御門の変)などが記述。
妻は杉文(すぎ ふみ)、吉田松陰先生の妹。松下村塾の双璧と呼ばれ、高杉晋作と並び立つ逸材。





◎阿東生雲・旧街道ウオークの参加報告(一般公募班)。
 開会式・出発:阿東地域交流センター生雲分館10:00/13~「県道萩篠生線(県道11号線)」~㋺南園隊駐屯地10:23/37~楽山亭跡地10:42/51~明尊寺10:55/11:02~「県道萩篠生線(県道11号線)」~生雲市の新町11:05~「県道吉部下篠目線(県道344号線)」~生雲八幡宮11:10/33~「小径」~昼食:阿東地域交流センター生雲分館11:44/12:27~「勝手に腹ごなし生雲市散策」~午後の出発:阿東地域交流センター生雲分館12:43~「県道迫田篠目停車場線(県道310号線)」~生雲市の本町12:45~大谷家旧屋敷移設(現、寺山家・中市屋)12:47/52~生雲八幡宮・出勘場前12:54~県道吉部下篠目線(県道344号線)」~生雲小学校前12:57~大谷家墓所13:08/19~「小径」~大谷庄屋跡13:24/36~解散式:相栄町集会所前13:38/40。
注:個人情報保護のため画像処理しています、お見苦しいですがご容赦ください。


㋑集合・開会式など:阿東地域交流センター生雲分館。
 主催者挨拶などの後、一般公募者と地元の2班に分かれ 「明治維新150年 明治維新の策源地 山口市」 の幡を先頭に出発しました。
生雲から山口市内にお嫁に行かれた参加者が多く、昔の生雲の話に花が咲き和気あいあい、明るく楽しい歴史勉強ウォークでした。
開会式、阿東町地域交流センター生雲分館前 「画像処理」

同上、ガイドの皆様

同上、幡を先頭にスタート


㋺南園隊駐屯地。
 四境戦争・石州口の戦いに備えて訓練を行った、大庄屋大谷久七が武器調達などに多大の貢献をしました。隊は遡る大田絵堂の戦いの終戦後、佐々並市の戦いでも活躍しました。、
南園隊駐屯地

同上 「画像処理」

同上、楽山亭跡地から地元班の勉強を望む


㋩楽山亭(らくざんてい)跡地・大谷家の別荘。
 久坂玄瑞は青年期に母を亡し、母の実家・大谷家の別荘に親戚をよく訪ねました。維新に大活躍した後述・写真の九代大谷忠兵衛(玄瑞の母、富子の長兄)、墓碑に「楽山亭仙齢壽昌居士」と刻む。 
楽山亭跡地 「画像処理」

同上 「画像処理」

同上、葛が一面に貼りつく


㊁明尊寺。
 裏山で南園隊が調練、当時の遺物が現存しています。南園隊は四境戦争・石州口の戦いで、大村益次郎指揮の下で大戦果を挙げました。溜め池は水草が繁茂、参加者のお話では昔は綺麗で泳いでいたとの事でした。
明尊寺
同上

明尊寺の溜め池、池縁をウオークする一般公募班


㋭生雲市の新町。
 赤い石州瓦の古い情緒がある山代街道町並み。積雪の為に道路中央に流雪溝あり、萩往還の佐々並市(ささなみいち)と同じ構造です。
参考情報:佐々並市。 当ブログ2015.03.17   検索 ⇒ 史都萩を愛する会 第55回例会
山代街道の新町

同上。行き当たりの左が生雲八幡宮、右に本町の通り


㋬生雲八幡宮。
 七卿落ちの一人の澤宣嘉(さわ のぶよし)卿は生野挙兵に失敗して単独行動、生雲の大庄屋大谷家に潜居しました。卿は元治元年に憂国の願文を生雲八幡宮に捧げ、現在も保存されています。
また、参道の石灯籠に大谷久七と彫られたものや、出勘場・目代所の三戸家の三戸 櫻屋と彫られた石柱があります。 
生雲八幡宮

同上、鳥居の左の建物が三戸家 櫻屋跡

同上 「画像処理」

同上の石灯籠、大谷久七奉納
大谷久七の銘
三戸 櫻屋 の石柱














㋣昼食の阿東地域交流センター生雲分館。
 地域の方々のご接待で美味しく食す、地元お菓子のお土産まで頂きました。館内に貴重な資料展示など、写真撮影して今後の勉強の参考にさせて頂きました。お土産を購入して、腹ごなしに本町の町並み散策ウオークを個人で楽しむ。
参考:生雲分館HP  検索 ⇒  くもたんの日記
昼食の阿東地域交流センター生雲分館

同上、昼食会場 「画像処理」

同上、お弁当

同上。地元奥さま連のお土産コーナー、文の初恋「梨ジャム」など

同上、地元HP 「いくもだより」


㋠生雲市の本町。
  山代街道の本町は生雲八幡宮から常盤橋の間、生雲市(いくもいち)の中心として栄える。萩の乱(前原一誠の乱)で本町に反乱軍が駐屯、戦過で大半が焼失したそうです。
山代街道の本町へ昼食後に向う、正面は若味噌川の常盤橋

山代街道の本町

同上、奥に生雲八幡宮(トラックが遮る)


㋷大谷家旧屋敷移設・中市屋。
 大庄屋大谷家の一部が移設され現在は寺山家、中市屋として生雲唯一の食料品店を頑張っておられます。また貴重な棟札を観せていだだき、大変ありがとう御座いました。
大谷家旧屋敷(現 寺山家・中市屋)


同上 「画像処理」

同上、寺山家棟札

同上


㋦出勘場、生雲小学校、千人塚など。
 生雲八幡宮・出勘場前を右折、生雲小学校前を経て高台の道で千人塚を遠望、大谷家墓所に向う。
出勘場は萩藩の奥阿武(おくあぶ)宰判出先、旧阿武郡むつみ村吉部(現在は萩市むつみ吉部下)に奥阿武宰判跡が整備されています。
出勘場(旧阿東町役場)

生雲小学校

老人ホーム前、正面の一段高い道を右に大谷家墓所に向う

一段高い道から生雲小学校、裏山に陶・吉見氏の戦いの千人塚


㋸大谷家墓所。
 山中に大庄屋の大谷家のお墓、久坂玄瑞の伯父さんの大谷忠兵衛(九代大谷久七、法名:楽山亭仙齢壽昌居士)や十代大谷久七など維新で大活躍した方々などが眠る。
大谷家墓所、阿東地域交流センター生雲分館の掲示をパチリ


同上、経の坂道を上る

同上、 「画像処理」

同上。九代 大谷忠兵衛 楽山亭仙齢壽昌居士


㋾大谷家跡。
 大庄屋の大谷家、久坂玄瑞・文や中山忠光・澤宜嘉・大村益次郎など幕末の名士が通う。往時の敷地は385坪、今は石垣が残るのみ。個人情報保護の為に画像処理しています。
大谷家跡、往時の石垣は生垣に隠れる

同上 「画像処理」

同上


㋻解散式:相栄集会所前など。
 ガイドの皆様に大変お世話になりました、感謝の気持ちを込めて盛大な拍手で解散、また新しい企画をお願いします。帰路は平川 要(ひらかわ かなめ)屋敷を遠目に確認、澤宜嘉卿の生雲でのお世話掛り、幕末から明治にかけて活躍されました。卿は萩市大井本郷 『中世の阿牟井駅(あむいえき)』 の弘誓寺(くせいじ)にも潜居され、跡地に立派な石碑が建っています。
解散式、相栄町集会所 「画像処理」

平川要屋敷、澤宜嘉が観月の歌を詠んだ二階家は現存しません 「画像処理」

生雲橋から、古の山代街道生雲市の古市を山裾に臨む

阿東地域交流センター生雲分館の掲示