2020年12月12日(土)晴れ・曇り、募集定員20名
中世日本の傑作・益田を歩く
日本遺産認定 令和2年6月19日 中世日本の傑作 益田を味わう
◎ 益田市HP、 日本遺産認定特集:中世日本の傑作 益田を味わう【PDF 4枚】
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広報ますだ 令和2年8月号
同上、日本遺産特集 PDF4枚の先頭ページ
益田市歴史文化研究センター様のご案内、中世益田氏と雪舟の関連施設などを詳細勉強でき大変ありがとう御座いました。益田氏は関ケ原以後に萩須佐の領主に益田から領地替え、画聖雪舟は山口の大内氏と所縁深く雲谷庵で創作活動の後に十五代益田兼尭(かねあき)を頼って益田に転居しました。
Ⅰ、往 路
中世の益田を歩いてみよう、発行 改訂4版 2017.09 A4・P26
益田市案内板 「三宅御土居跡の設置看板」
室町時代の関連地図 「雪舟の郷記念館・外周の雪舟眺望風景想像図を流用(部分)」
【タイムテーブル】 例:⇒ マイクロバス移動、~ 徒歩移動。
萩市役所P 8:30 ⇒ JR須佐駅(トイレ休憩)9:17/9:23 ⇒ 櫛代賀姫神社・益田市の眺望 9:59/10:29 ⇒ 福王子 10:33/10:48 ~(砂丘)~ 中須東原遺跡 10:53/11:09 ⇒ 雪舟の郷記念館 11:20/11:53 ⇒ 昼食:妙義寺 12:02/12:52 ⇒ 三宅御土居跡 12:58/13:20 ~ 旧山陰道 13:26 ~ 萬福寺 13:26/13:55 ~ 染羽天石勝神社 14:01/14:11 ~ 医光寺 14:16/14:46 ⇒ キヌヤ 益田ショッピングセンター(お土産、トイレ休憩)14:52/15:20 ⇒ JR須佐駅(トイレ休憩)15:58/16:06 ⇒ 萩市役所P 16:52
スタートの萩市役所PからR191号を日本海沿いに東へ進む、道中に萩市須佐歴史民俗資料館(須佐益田氏の資料展示、益田から須佐に領地替え)前を通過して約800mでトイレ休憩のJR須佐駅へ。島根県営の萩・石見空港の侵入灯直下を通り益田市街でR9号線に乗る、暫く走りR9号から海側に外れて高台の櫛代賀姫神社に到着しました。
萩市役所
JR須佐駅、関ケ原後に益田氏は須佐が新たな領地になる
同上、中央奥にトイレ、手前は時刻表の父 手塚猛昌顕彰之碑
駅前交差点の北は日本海、須佐湾と須佐漁港。
萩・石見空港の日本海側からの標準式侵入灯、鉄骨構造がR191号の頭上に迫る
Ⅱ、櫛代賀姫神社(くししろかひめ じんじゃ)
益田川河口右岸の高台にある『延喜式』の古社、この地を開拓した櫛代族の櫛代賀姫を祀り国登録有形文化財。益田市の眺望が抜群で中世領主の益田氏の活躍した遺構・地形など、大所高所から教えて頂きました。
櫛代賀姫神社
神社由緒
国登録有形文化財該当箇所
展望地からの眺望・お勉強
展望地案内板
同上の部分拡大、中須町全域空中写真
同上の部分拡大、説明文
Ⅲ、福王寺(ふくおうじ)
浄土宗寺院で道路からも目立つ石造十三重塔(二つ欠損)や石造物が多い、万寿三年(1026)の大津波で近くの「福の字」の付く五つのお寺と共に被害に遭いました。
説明板
石造十三重塔
石造物群 1/2
石造物群 2/2
市内石造物調査概報Ⅰ、発行 2017.03 A4・P8
砂丘を歩き、中須東原遺跡に向かう
福王寺から近く徒歩で裏山の砂丘から上流に移動。中世益田氏の湊として海外交易で栄え、寺社の造営や「益田家文書」に象徴される文化的な元手になりました。
中須東原遺跡、中段左の福王寺(石造十三重塔)から中段中央の裏山砂丘を歩き到着
遺跡説明板
同上の拡大 1/4、中須東原遺跡
同上の拡大 2/4、その周辺
同上の拡大 3/4、出土品
同上の拡大 4/4、主な中世遺跡
中須西原遺跡を望む
舟着きの礫敷き、貴重な遺構です 「櫛代賀姫神社展望地案内板を流用」
雪舟の遊学した中国の天童山景徳寺を模した建物、館内に雪舟の絵画などの展示があります。隣接の雪舟終焉の地(東光寺、現大喜庵)、画聖のお墓などを訪ね益田市街を眺望しました。
ポスター掲示
記念館の外観
講座テキスト、発行 2009.07.10 A4・P16
画聖雪舟の代表作「国宝 山水長巻(四季山水図)」は山口県防府市の毛利博物館が所蔵、例年は秋の国宝展でご覧になれます。
Ⅶ、三宅御土居跡(みやけ おどいあと)
案内図
雪舟の墓
同上
雪舟と大喜庵(東光寺)
大喜庵
雪舟眺望風景想像図(室町時代)
Ⅵ、昼食の妙義寺(みょうぎじ)
昼食場所のご提供ありがとうございます、お弁当は「戦国益田氏弁当《秋》」を美味しく頂きました。木造十一面観音菩薩立像は益田市最古の10世紀の作、五百羅鑑像やお庭を拝見し穏やかに午後のお勉強に備えました。
本堂
戦国益田氏弁当《秋》
同上
お品書き
同上、説明文
木造十一面観音菩薩立像
五百羅漢像
益田氏の居館で天正十一年(1583)の大改修で南北100m・東西190mの規模、山口の見島や博多の近くを領有して海外交易を盛んに行い繁栄していましたが。慶長5年(1600)に関ケ原の戦いに敗れた毛利氏に従い益田を離れ、現在の萩市須佐に移り永代家老の重責を幕末まで勤めました。
『須佐(益田から移封)の益田氏の紹介』
史都萩を愛する会では2018年3月18日(日)「第67回例会 現地講習会」で萩市須佐に益田氏を訪ねました、その様子を当該ブログの右欄外ブログアーカイブからクリックしてご覧ください。
三宅御土居跡などの説明板
土塁の説明板
おどい広場の井戸、東土塁
西土塁を望む
三宅御土居跡の保存とその後、発行 2020.07.01 A4・P98
Ⅷ、旧山陰道(益田街道筋)
京都から日本海側を進み島根県益田市・津和野町へ、「山口の石州街道」は山口市徳佐を経て山口市小郡で旧山陽道に繋がる街道です。
北を望む
南を望む
Ⅸ、萬福寺(まんぷくじ)
南北朝の文中三年(1374)に十一代益田兼見(かねみ)が再建した国重要文化財の時宗寺院、四境戦争(第二次幕長戦争)石州口・益田口の戦いの戦禍を無事に潜り抜け文化財が継承されました。
奥に赤門、益田口の戦いで浜田藩などが出撃
本堂は戦禍を免れ、昭和九年(1934)に大修理
重要文化財の二河白道図(説明文のみ)
雪舟庭園
本殿は天正十一年(1583)に十九代益田藤兼(ふじかね)が二十代益田元祥(もとよし)に命じて火災から再建した国重要文化財、お隣の益田東高校グランドでは生徒が元気に走り回っていました。
鳥居、右は益田東高校グランド
説明板
奥に本殿
Ⅺ、医光寺(いこうじ)
総門は黄檗宗の竜宮造りで益田城大手門を承応年間(1652~55)の改築と伝えられています、雪舟庭園と荼毘に付した雪舟灰塚があります。
境内案内図
竜宮造りの総門
説明板
雪舟庭園
雪舟灰塚の由来
雪舟灰塚
Ⅻ、復 路
萩市にも4店舗があるキヌヤ 益田ショッピングセンターでお土産 & トイレ休憩、後は往路と同じ経路でJR須佐駅でトイレ休憩後に全員無事に萩市役所Pに到着し目出度し。
キヌヤ 益田ショッピングセンター、お土産 & トイレ休憩
全員無事に萩市役所前に到着
🔶 参 考 の 本